【離島を舞台にしたプロジェクト、壱岐YOYOがスタートします!】


みなさん、おはようございます!
こんにちは!こんばんは!Vです。

こっからとしては初の地域向けの場づくり。
壱岐YOYOプロジェクトが長崎県の離島でスタートします!
今、絶賛仲間を募集中なので
壱岐YOYOにかける想いを
今回はこってりと書かせてもらっています。

壱岐YOYOって何なのか?

一言で説明したいのですが
一言で説明できないプロジェクトです笑

壱岐の魅力と同じように
言葉にすればするほど
大事なことが全部するっと抜けていくような
もどかしい気持ちを毎回感じて言葉に窮します。

もどかしいくらいが
ちょうど良いのかなと思いつつ
それでもとても大事なことなので
もう少し言葉を重ねてみます。

壱岐YOYOとは何なのか?を説明するよりも
なぜ壱岐YOYOをやりたいと思ったのか。
それを説明することが結果、壱岐YOYOとは何なのか?に
繋がりそうなのでそこから書き始めてみます。

少し乱暴な言い方になりますが
男が何かを始めるときのきっかけは
本当はだいたいが「もてたい」からだと思う。
結構シンプル。
他のもっともらしい理由はだいたい後付けだ。
(後付けだけど実際そういう側面もあることも事実です。一応。)

それと同じように
私がこの壱岐YOYOをやりたいと思ったのも
この島がただただ好きだから。この島にもてたい。
結構シンプル。

なぜ、好きなのか?
感覚といえばそれまでだけど
この島にいると「Playful」に繋がる感じがするからだ。
もう少しひらたく言うと
「生きている感覚」がぐっとするからだ。
時には強すぎくらいに。この島のエネルギーは本当にすごい。

もう少しその好きを深めていくと
人は何のために生きるのか?
どう生きたいのか?
ということに結局はいきつく。

日々自分らしく、自然に、ありのままに、
豊かに、今ここから、肚から、魂から、願いから、
と、いろんな表現の仕方があるが、
(ちなみに私は「Playful」と表現しているのだが)

要は「生きている手触り感」を日々感じながら
幸せに生きていきたい
ってことに尽きるんじゃないかと思う。だって人間だから。

この島(自然)にはその感覚を呼び覚ます力がある。
(というか本来はどこにいようが人の内側にすでにその力がある。人も自然なので。)

都市の生活やビジネスに浸っているとどうなるか。

資本主義・経済至上主義の中で
効率化、生産性が求められ、
仕事は細分化され、全体像が見えず
処理しきれない情報や仕事が目の前に溢れ
自分の感情や想いを感じている暇もない。
息を止めてダッシュをしているかのような毎日。
アルコールや買い物でいろんなものを紛らわせながら
週末に少しだけホッとするが回復しきらないまま
また戦いの日々がやってくる。

このままでいいのか?

漠然とした不安は感じているが
いろんな恐れがあってなかなか次の一歩が踏み出せない。
いつしかそんなこと考えても無駄で辛いなと
ふたをして、みないようにして、
自分の人生を生きることを諦めていく。
何のためにやっているのかも見えないし、
やりがいも感じない。
もっとやっかいなのは
やりがいもある程度感じているし、不満も特にない。
だから、大きなリスクを冒してまで
現状を変えたくないというマインドセットかもしれない。

さらに、関係性も希薄だ。朝の電車内は譲り合いどころか
殺伐とした空気。近所づきあいもほぼない。
友だちでさえも飲み会やソーシャルメディア上で
他愛もない話はするが本音では話さない。

とはいえ島(ローカル)も光ばかりではない。
決して便利とは言えないむき出しの自然環境。
1日ならまだしもそれが日常だ。
閉鎖的な社会。魅力的な仕事がない(と感じている。)
遊ぶ場所もない。便利で刺激がある都会がまぶしくみえる。
関係性は濃厚だ。誰がどこで何をしているのかほぼ筒抜け。
プライバシーは感覚的にほぼない。
他と違うことをしたらたたかれる。

つまり、都会とローカルは表と裏。
都会とローカルの中にも表と裏がある。
表象で起きていることは違っても根っこは同じ。
日本だけではなく物理的な意味で世界に出ても同じだ。
世界は相似形でどちらが良い悪いはない。
すべての物事もそうだ。光と影。生と死。頭と心。

死ぬという概念があるから生が感じられるし
不幸せがあるから幸せも感じられる。
すべてはバランスで両方必要。

大事なことはどちらかから逃れて
どちらかを選択するのではなく
両方ともをふわっと抱きしめること。
清濁併せ呑む。一体感。全体性。
そうしないと結局行き着く先は同じだ。

そして中心軸をもつこと。
中庸。ニュートラル。今、ここ。あり方。
これまたいろんな表現があるけど
つまりは、
わたしはどう生きたいのか?という軸を感覚的に掴むこと。
グッとではなく、ふわっとつかむ。
うなぎをグッと掴むと逃げるように
ふわっと遊ぶような感じでつかむことが肝要だ。
これだ!ではなく、これかな?ぐらいの感じ。

だから、この壱岐YOYO
都市とローカルの光も影もふわっと抱きしめて
(だから兼業、副業、多拠点生活はむしろ歓迎)
人が生きている感覚と繋がりをふわっと取り戻し
わたしの軸にふわっと繋がって調和的にPlayfulに生きていくための
コミュニティでありプログラムです。

このふわっと感が「遊び」です。

なので、このプロジェクトは
人によっては肩透かし感があるかもしれませんが
地域の課題を見つけて解決するものではなく
(そもそも地域には課題なんてない)
地域活性を促すものでもなく
(活性という概念はそもそも資本主義が前提だ)
都市にいる人間が地域の人間に対して一方的に手を差し伸べるものでもなく
(逆も同じ。そもそも地球という規模では同じ人であり、対等だ)
とはいえ資本主義を否定することもなく
既存の使える仕組みは最大限に活用しながら

わたしの軸に繋がって創る。
地域の文化と風土を生かして(というか生かされて)創る。
過去でも未来でもなく、今ここの時間軸を超えたところから創る。
課題(ないもの)からではなく、可能性(あるもの)から創る。
特別なものではなく、日常を大切にしながら創る。
使命感からではなく、好奇心(遊び)から創る。
都市とローカルの良いとこどりをしながら創る。
一人ではなく、みんなで創る。

そして、一連のプロセスを通して
わたしの軸にふわっと繋がって生きる。
ということを深め続けていく。
終わりなき学びの旅のようなもの。

そうすることで、「創る」というよりも
自然と現実がふわっと創り出されていく。
そのプロセスを遊ぶような感覚で楽しむ。
もしかしたらその結果の部分を切り取って
課題が解決した、地域が活性した、経済効果があった
新しい働き方・暮らし方、
と言われることもあるかもしれません。

そんな感じの質感が壱岐YOYOです。

そんな感覚で見事なくらいに
粋に生きている人たちが
この島にはすでにたくさんいます。

これ以上書くとこぼれていきそうなので
そして定義をしちゃうと分断が起きて
想像・創造が止まってしまうので
この辺りで置かせて頂きつつ。
この続きは、壱岐で。

まずは一緒に遊びましょう。

この余白(遊び)しかない取り組みを
一緒に育てていけると嬉しく思います。
まだ見ぬご縁と広がりに感謝しつつ。

ふわっと。



※壱岐YOYOWEBページ

929日(土)に東京でイベントも行います

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